第24回:Butch Cassidy_ブラウンズパーク
更新日2007/04/05
酔狂から乗馬トレッキング、一日コースなるものに参加したことがある。私の乗馬経験はゼロに等しく、小学生の頃、札幌の北海道大学構内で乗馬として全くトレーニングされていない農耕馬にまたがって遊んだことがあるだけだ。馬のほうは大きなハエが止まったほどの注意も跨った私に払わずに草を食べ続けたり歩き回ったりし、我々ガキどもは鬣(タテガミ)にしがみ付きながらも木製のピストルで打ち合いの真似ごとを演じたり、インディアンの嬌声を上げたりして遊んだものだ。それだけが馬と関わった私の体験だった。
中年の小柄なカウボーイが案内役で先頭に立ち、私は、というより私が乗った馬は、首を振りながらただひたすらその後に付き従い、私の役目はひたすら落馬しないことだけだ。ケモノ道すらない瓦礫の荒野を馬の背に揺られながらの行程は汗水流しながらの自分の足で歩くハイキングとは違った楽しさがあることを見出した。第一、目の高さが全く違うと感じ入ったことだ。
2時間ほどして、私が少しは馬の背に慣れてきた頃、案内役のカウボーイのオッサンが少し走らせてみるかと、つぶやきこちらの返事も待たずに馬の腹に軽く一蹴り入れるなり、猛烈なスピードで(と恐怖心から私は感じたのだが)走り出し、私の馬もそれに負けじとばかり駆け出したのだ。まるでダービーのホームストレッチで鼻の差を競うかのように!
知識として馬を止めるには体重を後ろにかけながら、手綱(タズナ)を引くことは知っていたが、いまや振り落とされるか否かの緊急事態の中で、頭だけで覚えた知識は全く役に立たず、並んで走らせていたカウボーイのオッサンが横から私の馬の轡(クツワ)をヒョイと軽く取り、止めてくれるまで続いたのだ。
その間200メートルくらいだっただろうか、野球帽、サングラスだけでなくサドルホーン(サドルの前に飛び出ているグリップ)にひっ掛けてあった水筒、ランチの入ったバッグまで走行路に飛び散ったのだった。
たった一日、それも時間にして6、7時間の経験でモノを言うのはおこがましいことは承知の上で言わせて貰えば、カウボーイたるもの尾てい骨を充分に保護するに足る充分な尻の肉と、激しい摩擦に耐えうる厚い尻の皮を持つ者でなければならないと実感したことだ。
その後、2、3日の間、それまで意識したことのない尻と内股の筋肉が悲鳴をあげ、歩くにも座るにも苦痛が伴った。鏡をあて下からプライベートな部分を眺めてみたら、やはり広くブス色に染まっていた。
アウトドア、アドベンチャーツアーの一環として"アウトロートレイル、ブッチ・キャサディの足跡をたどる馬の旅一週間"などと銘うったパッケージツアーが幾つもある。もちろんアウトロートレイルの全行程を行くわけではなく、オサワリ程度に荒野をかすめ、もっぱら風光明媚で変化にとんだコース設定になっているようだ。
ブッチたちは逃避行で一体どれほど時間、日数を馬の背で過ごし、幾夜火のない野営をしたことだろう。尻の皮が何枚あっても足りない強行軍でモアブから直線距離にして160マイル、実際の行程では恐らく250マイルほどを、地元の人が単にバッドランド(悪い土地)と呼んでいる白茶けた台地を、狭く深い峡谷を縫うようにしてブラウンズパークへと逃げ込んだのだった。

John Jarvie
スコットランドからこのブラウンズパークへ移り、
雑貨屋を最初に開いた。
彼の店はブラウンズパークの住人の情報交換所、
ニュースセンターだった。
パークと呼ぶと“公園”を連想し、広い意味でも国立公園や自然公園のような景勝地と取られる懸念があるが、中西部では単なる地名で、ブラウンズパークもその一つである。南のユイタ連山と北のオイユクツ連山の間を蛇行したグリーンリバーが流域に牧草地を作り、時には岩山をえぐりとるように深い峡谷をかたち造っている。
このグリーンリバー沿いの谷は、もともと野生動物の天国とさえ言われ、1820年代にビーバーのトラッパー(罠師)たちが入り込んでいた土地だ。ブラウンズパークという地名も、フランス系カナダ人のビーバーハンター、バプティスティ・ブラウン(Baptiste
Brown)から由来している。
その後、1837年にはロドレ・キャニオンに交易所が設けられたくらいだから、商品価値の高かったビーバーの毛皮の買い付けが盛んに行われていたのだろう。お決まりのように、乱獲でビーバーが捕れなくなり、1840年の半ばに交易所は廃墟になった。
ブラウンズパークに牛馬泥棒たちが格好の隠れ家として利用し始めたのは1870年に入ってからのことだ。主にテキサスのカウボーイ兼牛泥棒がワイオミングへ移動させる牛をかすめ取ってきてはこの地に隠していた。
ブラウンズパークがアウトローの聖域になったのは、なんといっても地理的条件が大きい。ユタ、コロラド、ワイオミング3州の角に位置し、地元の人間かアウトローだけが知る抜け道を辿って、容易に隣の州に駆け込むことができる地点なのだ。加えて鉄道の駅がある町ヴェナルまで40マイルもの距離があり、そこからブラウンズパークまで馬車の通れる道すらなかったので、大掛りなマンハントをヴェナルで組織したとしても、不意にブラウンズパークを襲うことはできず、アウトローがワイオミングやコロラドに逃げる時間がたっぷりあった。
また、グリーンリバーも天然のお堀の役目を果たし、アウトローたちは渡し守と意気投合したのか、たっぷり謝礼をしていたのか、追跡者らしきよそ者が来たときには鐘をならし警告を発する手はずになっていた。

Charles & Marry Crouse
ブラウンズパークのアウトローシンパの牧場主夫妻。
彼らにブッチたち3人は匿ってもらった。
この写真は結婚して間もない頃のものだと思われる。
外界から遮断された山間の谷に沈んだようなブラウンズパークの住人もアウトローのシンパが多かった。チャーリー(Charlie
Crouse)はグリーンリバーの南に広大な牧場を持っており、好都合なことに彼の牧場はワイオミングの州境までたった3マイルの距離しか離れていなかった。
このヴァージニア生まれのアウトローシンパは、自分自身は法を破るようなことはしていないが(少なくとも記録上では)、大酒飲みで酒乱の気があり、荒っぽいことが大好きな御仁で、まるでアウトローと親交を結び、匿うことを人生最大の喜びにしているような人物だった。マットとは旧知の間柄だったし、1886年にブッチも彼の元で働いたことがあった、と言われている。
ブッチ、マット、トムの3人は、チャーリーのキャビンで初めて安心して夜を過ごすことができたのだった。
…-つづく
第24回:Butch
Cassidy_追う者と追われる者

