第21回:家系の話 その2更新日2006/07/20
モビリティが高いというような言い回しをして、アメリカ人が住む場所を頻繁に変えることは社会学者がよく指摘しています。自分を生かす良い仕事があればどこへでも気楽に引越すし、会社もあっさりと移ります。それが今までの会社と競争関係にあった、いわば敵方の会社でも条件がよければ、転職するのに何のためらいもないようです。
私個人の場合でも、今指折り数えてみたら、大学は3回変わり、その間、寮、間借などで7回引っ越し、卒業後、仕事についてからも、日本、スペイン、プエルトリコ、アメリカ本土でもカンサス、コロラド州のロッキーの東側、そしてユタ州の州境など8回住むところ変えています。
新天地を求めて旧態依然としたヨーロッパから逃げ出したように、あるいは一攫千金を夢見てニューワールドへ渡ってきた血がまだ私たちに流れているのでしょうか。アメリカ人が一生の間に引越しをする回数は他の国に比べ圧倒的に多いようです。
父方のお祖父さんの両親(私の曾おじいさん)も、ペンシルバニア州からウイスコンシン州に移り、それから、娘の一人(私のおお叔母に当たる)が肺を病み、寒く湿気の多いウイスコンシン州より、乾燥したコロラドのほうが彼女の健康に良いという理由で越しています。
牧場や農園を売り、また新たに買い、そして、そこまでの馬車での移動はとても大変な大仕事だと思うのですが、ともかく7人の子供を引き連れコロラド州のジェノアというロッキー山脈の東側にある小さな村のはずれに広大な土地に入植し、家、牧舎を自分で建て牧畜をゼロからはじめたのです。それは文字通りの西部開拓だったようです。

コロラド州、ジェノアの新築中の家。
牧場経営がうまく行っていたのでしょう、
今まで住んでいた家を納屋にし、大きな家を建てました。
それもやがて手放すことになりますが。
お祖父さんは7人の子供の上から2番目ですが、ジェノアの村の鍛冶屋、兼雑貨屋、兼大工、兼棺おけ職人の3人娘の一人と結婚します。それが私のヴェルマーおばあさんです。
西部の開拓部落では年頃の女性の数はとても少なく、引く手あまたの売り手市場だったのでしょうか、それとも選択の余地があまりなかったせいでしょうか、お祖父さんの弟も、ヴェルマーおばあさんの妹と結婚しています。

ジェノアの村。まるで西部劇に出てくるような荒野の
真っ只中に、通りが一本走っているだけでの村です。
右の大きな建物がおばあさんの両親がやっていた万屋です。
昨年、近くを通ったついでにジェノアの村の墓地に立ち寄ってみたとろ、およそ200基のお墓のなんと半数以上が私の縁者でした。西部は広くても随分限られた人間関係の中で生きていたのでしょう。私の知らない曾お祖父さん、曾おばあさんもそこに眠っています。
お祖父さんは牧場を広げ、家も建て直し、すべて軌道に乗りはじめた矢先、3年続いての旱魃に襲われ、それから大恐慌の波にあっさり飲み込まれてしまいます。
その年の旱魃の酷さは語り草になっています。土地が乾ききり、風が砂塵を舞い上げると10メートル先も見えなくなったとか、家の中までホコリが積もり、白いはずのシーツがすべて黄土色に染まったとか、朝ごはんのオートミールも早くかきこまないと、黒砂糖をかけたように茶色になってしまうとか聞かされたものです。
でも、一番命取りだったのは、3年目には牧草が育たず、井戸も枯れたことでした。家畜がやせ細り始め、いくら安い値を付けても売れず、死に始め、農業組合は破産し、政府や銀行は見向きもしてくれず、八方ふさがりの状況に追い込まれたのでした。
お祖父さんは辛い決断を迫られ、ジェノアの農場をタダ同然で手放すことにしました。当時何千、何万という農夫が家財道具を積み込んだトラックや馬車でアメリカ中をさ迷ったなかに、お祖父さんはお祖母さんと5人の子供を引き連れて身を投じることになったのです。まさにスタインベックの『怒りのぶどう』の時代をそのまま体験していたのでしょう。

これから路頭に迷う?さまよう?ところ…。
まるで貧民の移住です。車の後ろに最低限の家財道具を
積み込んだトレーラーを引いていますが、
当時の悪い道路を1,500キロ近くを初めからボロだった車が
持ちこたえたのは奇跡だったと繰り返し聞かされたものです。
左上からお祖父さん、おばあさん、長女ジェシー、
左下から、次女へレン、三男ロン、ボブ、父のビル。
お祖父さんはさすがにやつれて見えます。
この写真は、これからジェノアを出るところです。一番下のロンは3歳でした。『怒りのぶどう』はジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演で映画化されましたが、この写真はまるでその中の一つのシーンであるかのように、イメージがあまりにピッタリと一致するので、かえって可笑しさがこみ上げてくるほどです。
『怒りのぶどう』と違うところは、お祖父さんは西のカリフォルニアに向かわず、逆に東のミズウリー州に向かったことでした。そこで寡婦が一人で世話しきれない農場で、初めは牧夫として働き、やがてその農場を買い取り、近くのもっと大きな農場に移り、そこで私が生まれた、というわけです。
お祖父さんもおばあさんも決して愚痴を言わない明るい性格の人でした。でもお父さんの子供のころの話を聞くと、一体これが一世代前に実際にあったことなの? と驚くのを通り越して、滑稽なほどの貧しさなのです。第一、お父さんたち男兄弟3人は家の中で寝たことがないというのです。夏も冬もスモークハウス(年に一度、秋に豚を殺し保存肉をスモークするときにだけ使う、狭い小屋)に牧草を敷き詰めそこで寝ていたそうです。
-…つづく
第22回:家系の話 その3

