第13回:カントリースクール その4更新日2006/05/25
私が育ったころ、特に田舎では子沢山の家庭が多く、5人6人兄弟は当たり前、8人、10人兄弟も珍しくありませんでした。
私は4人兄弟の長女ですが、母は5年間に4人を続けて産むという偉業を成し遂げ、そのまま続けると、とんでもない大所帯になってしまうと懸念したのでしょうか、それで打ち切りにしたようです。
ということは私が6年生のときに、兄弟4人同じ学校、しかも同じ教室にいましたし、それが8年生を終え、学校を出るまでの3年間、家でも教室でも一緒という状態が続いたのでです。長女の役割の大きさにご同情ください。
ですが、私たちジョイ一家よりも勢力のある家族もあったのです。コールマン一家は敬虔なカソリック信者で“生めよ増えよ地に満ちよ”を実践していましたから、9人兄弟で、最盛期には6人の兄弟姉妹が一つの教室にいましたし、クルツ一家も7人(双子がいたので)同時に出席していました。
日本流に言うなら、ジョイ、コールマン、クルツ一家が御三家で、全校生徒の(30人内外でしたが)過半数を占めていたことになります。それぞれの家に複数のSを付けて、ジョイズ(Joys)とかコールマンズ(Kolmans)と、その一家の子供たちをまとめて呼んでいました。
御三家ほどではないにしろ、一人っ子はあの大きなサリー以外知りません。もっともサリーの場合はサリーのお母さんが4人の子供を連れて家を出てしまい、サリーだけお父さんと残ったのですが…。兄弟が3人、2人しかいないというのは、なにか子供には分からない深い事情があり、とてもさびしく哀しいことのように思われていました。
こんな田舎の学校ですから、中間試験や期末試験などはありません。私の学年で言えば“4番目の成績で卒業した”のは4人しか卒業生がいませんので、ビリケツということになりますが、そんな成績の順位はありませんでした。
でも、色々な機会にフードルマイヤー先生は“賞”をくれました。雪が融け、一番先にロビン(つぐみの一種、春先にチュンチュンと冬の終わりを告げるように鳴く小鳥)を見つけた生徒やアメリカ独立憲章を間違いなく暗唱できた生徒、牛の種類を全部覚えた生徒は、先生が自分で作ったさくらんぼにチョコレートをまぶしたお菓子をもらえるのでした。
コールマン一家は人数も多いけれど皆勤勉で賢く、さくらんぼチョコレートを独占してしまう傾向がありましたが、先生は教室の回りのゴミを拾っていたとか、黒板をきれいに拭いたとか、そんな理由でもさくらんぼチョコレートを与え、いつかは全員に行き渡るように気を配っていたようです。
ビスマルクは“右手にムチ、左手に飴”の政策でプロイセンを統治したそうですが、(日本流にも“飴と鞭”というコトワザがあるそうですね)私たちのは“さくらんぼチョコレートとハエたたき”でした。
学校の維持と、建物自体が倒れてしまわないように補修するのは父兄の重要な役割でした。長い夏休みの間、フードルマイヤー先生と父兄が集まり、それぞれの得意とする分野で共同しながら、ペンキの塗り替え、屋根の修理、窓ガラスや窓枠の入れ替え、ハエよけの金網の取替え、傷んできた机や椅子の修理をしていました。そうでなければ、草原にポツンと建っている古い校舎はすぐにも崩壊してしまったことでしょう。
私がカントリースクールを出てから2年後、学校は閉鎖されました。その頃からスクールバスで生徒を拾い集め、大きな学校(と言っても日本の学校のようなスケールではありませんが、少なくとも一学年に1教室15、16人の生徒がいるような学校です)に統合されたのです。
その後、北のミシガン州の大学へ行くようになってから、冷たい風の吹く12月に一度、カントリースクールを訪れたことがあります。学校は牧草を入れる小屋として使われていましたが、そこに建物があるから潰れるまで便宜的に使っているだけのようでした。小屋が潰れるのは時間の問題なのが明らかでした。
誰でも経験することでしょうが、子供の頃になじみ親しんだ建物や木を大人になってから訪れると、その小ささに驚かされます。私の学校も、“エーッ、こんなに小さな建物だったの?”とショックを受けたほど、縮んでいました。
建物の中は机や椅子はもちろん取り払われ、四角く束ねられた牧草が積み上げられていましたが、まだ黒板、お弁当箱やコートをかけた釘はそのままでした。
この朽ち果てるままに放ってある建物が、かつては学校だったこと、子供たちが駆け回り、泣き、笑い、喧嘩し、少しは勉強もした所だったことを知る人もいなくなることでしょう。

私のカントリースクールです。
もう何十年前になるでしょうか、
大学に行くようになってから訪れたとき、
すでにこのようにペンキは剥げ落ち、
干草を入れるため西側の壁が大きく開けられ、
スライド式のドアがついていました。
-…つづく
第14回:春の訪れ

