更新日2001/10/18
風は落ち、雨足もすでに衰えた翌朝、まだ薄暗いうちに連れ合いと事務所を出て、水を漕ぐように海岸までの1キロ余りを歩いた。まっすぐに立っている電信柱は一本もなく、木々も乱雑倒れ道路を塞ぎ、 路面の低いところは腰まで水に浸かりながら海岸通りに着いた。
あれほど多くのヨットやボートが錨を下ろしていたのに、このとき湾内に浮いているのは10隻にも満たなかった。他の船は海岸に打ち上げられたり、半分沈んだ状態で岩の間に鎮座したり、マストだけ海面から出したりしていた。しかし大半は海の藻屑となって消えていた。
我がヨットはマストが折れた状態で、電線をぶち切り、交通を遮断するかのように、海岸通りにゴロリと横になっていた。連れ合いはこらえていた糸がプツリと切れたのか、押し殺した声で嗚咽しはじめ、涙が頬をつたっていた。人間は心のどこかで自分は死なないと思い込んでいるものだ。ヨット乗りも、どこかで自分の船は何時も例外でいることができると信じている部分があるものだ。しかし今回ばかりは自然は人間どものそんな思惑に頓着せず暴れ回ったようだった。私たちのヨットだけが例外であることは許されなかったのだ。
私たちのヨットがたった一本の海岸通りの入リ口近くに電柱や桟橋の残骸ともども横たわっているので、物見高いギャラリー連中も、新聞やテレビの報道陣もそこから先に進むことができず、みんながそこで足止めをくらうことになった。その結果、プエルトリコだけでなく米国本土の新聞までが、我がヨットのドラマチックなカラー写真を第一面に載せ、一時期はプエルトリコで一番有名なヨットになったのだ。おまけに, その年のベスト報道写真として、そんな写真のなかの一枚が選ばれ、もう一度日曜版に掲載された。私たちの方はいつそんな写真が撮られたのかさえ知らなかった。
ヨットによじ登り、キャビンに入ったとき、冷たい鉄の棒を背中に入れたようにザワザワと体内をよぎった──誰かが自分たちの生活圏に入り込み、踏みにじった──予感は当った。キャビンのなかは文字どおり空っぽだった。火事場泥棒たちは、まだハリケーンが去る以前に大仕事を片付けたらしかった。泥棒たちはペンチやドライバー、金鋸などのフル装備でやって来て、取りはずせるものはすべてはずし、はずせない物は壁ごとぶち壊し、きれいさっぱり持ち去ったのだ。
航海計器、工具、セール、台所用品から、私の古びたデッキシューズ、Tシャツ、下着、果ては歯ブラシまで消えていた。困ったのは、ヨットの復旧作業を初め汗まみれになっても着替えがないことだった。もちろん開いている店なぞあるはずもなく、買うことはできないので、連れ合いが事務所に何枚か持ち込んでいた下着類を借用することにした。人生50年のなかで、初めて女モノのパンテーを履くことになった。心地は悪くはなかったが、幸い病み付きになるほどのモノでもなかった。
私たちは、対岸に浮かぶ犯罪のまったくない小島、イスレタにヨットを舫い住んでいたので、ヨットのものが盗まれることなど想像だにしていなかったのだ。あとになって、周囲の仲間たちからどうして高価な計器類を下ろさなかったのかと幾度も言われたが、それは後知恵というものだ。ここではハリケーンの被害は二重構造になっているらしい。パート1は天災の部、パート2は人災の部となり、往々にしてパート2の被害の方が大きなものとなるのだ。こんな簡単なことを学ぶための授業料はえらく高くつくことになった。
<続く>
第25回:そしてハリケーンがやって来た〜その4