第18回:90パーセントの苦しみと…
更新日2001/08/30
カリビアンのクルージングで避けて通ることのできない、必要悪とも呼べるものが2つある。ボートボーイとサンドフライである。
南海の楽園をイメージさせる夕陽のビーチをエレガントなカップルが歩いていたり、ヤシの木に吊るしたハンモックに優雅に寝そべっていたりする観光ポスターを見るたびに疑問に思う。ありとあらゆる羽虫たちに刺されることなく、どうしたらこうやって過ごせる方法があるのだろう。
貿易風がよく吹き抜ける場所であればそうした被害は少ないが、それは単に程度の問題で、風の息が弱まったとたん、虫たちの猛攻はまさに雲霞のごとく始まるのだ。一番の難敵は、サンド・フライ(砂ハエ)、英米人が「NO
SEE THEM(見えない奴ら)」と呼び、地元の人々が「MIMES」と呼ぶ、その名のとおり見えるか見えないかという大きさの砂色をしたチッポケなハエである。これが刺す。殺すのはいたって容易で、チクリときたらバシンと叩けばいい。しかし皮膚に止まった感覚がないので刺されるまではわからない。叩き殺したときは、すでに刺されたあとということになる。そしてその数が限りなく無限に近い状況を想像してもらいたい。
新鮮な血肉を求めるサンド・フライにとって、とりわけ朝夕が猛攻を展開する食事時にあたるらしい。そして、地元の人よりも新来の客のほうが人気があるらしい。その差は夕食に呼ばれたときに歴然とする。近頃では我々も完全防備のための知恵がつき、長ズボンに靴下、長袖のシャツで防御するが、この熱帯で完全防備スタイルは汗まみれになるという欠点がある。
カリブをクルージングしているヨットは、ほぼ蚊避けのネットを全ハッチに付けているし、蚊を殺すこもごもの薬や蚊取り線香、ベープーマットの類、身体に塗るタイプの虫除けなどを持ち歩いているが、サンド・フライは蚊避けの網ネットの目をかいくぐって船内に入り込むし、蚊取り線香類は人間がむせ返るほど煙をたかなければ効果がない。唇やまぶた、耳の穴まで虫よけを塗るわけにはいかない。風がピタリと止まった入り江はこんなふうにサンド・フライ地獄と化すのだ。
私事だが、私の連れ合いはありとあらゆる虫に刺されやすく、刺されると人の何倍も腫れ、それが幾日もとどまる体質の持ち主で、拷問に等しい苦痛を強いられることになる。憧れのカリブにやって来たスウェ−デン人カップルの女性は悲惨だった。彼女は初日に細身の顔や手足が変形するほど刺され、パニック状態に陥り、翌日、冷房完備のホテルへと移り、すぐに帰国したほどだ。
私は、つねづね連れ合いにむかって、「ヨットとは90%の苦しみと10%の輝くばかりの体験であり、10%の楽しみが残りの90%苦しみを埋め合わせて余りある」と申し渡しているが、セーリングに出ればすみやかに船酔いし、アンカレッジでは羽虫の猛攻に容赦なくさらされる連れ合いは、「その素晴らしいはずの10%のほうの味わいをまだ知らない」などとのたまうのだ。
ヨッティーに男が多く、女性が圧倒的に少ないのは、このあたりのロマンチシズムの差というか、虫さされが皮膚だけではなく、心理的にもあとを引くという、女性の本質によるのではないかと思っているのだが、いかがなものだろうか。
第19回:我が島のこと