第43回:ヴィクトールのこと
更新日2002/05/30
旧共産圏、ウクライナからヴィクトールがやってきた。ボリスの鉄製の手作りヨットに、カナリア諸島からヒッチハイクで便乗し、アメリカ(プエルトリコはアメリカ領)で働こう、永住しょうとしてのことだ。
初めて彼らに会った時のことは、どうにも思い出せないのだが、彼らの方がよく覚えていて、私が30数年前に、シベリア鉄道でモスクワを経由してヨーロッパに初めて旅に出た時に、列車内で覚えた全部で20にも満たないロシア語を連発し、これも記憶の表面に突如シャシャリ出てきたロシア民謡を怪しげなロシア語で唄った、らしいのだ。
国際親善にはある種の軽薄さが必要なのだ。彼らの英語も私のロシア語よりましだとはいえ、酷いもので、よくコミュニケーションが成り立ったものだと思う。そして、私のショーバイ柄(私の仕事はヨットブローカーなのです)、ただでメーカー、ディーラーから貰った帽子、Tシャツなどを彼らにあげた、らしいのだ。
ボリスとヴィクトールはマリーナ沖にアンカーし、手漕ぎのディンギィーでこのマリーナに上陸したばかりの時だったので、いたく感動し、以後ボリスとヴィクトールは、広大なウクライナの平原を思わせる、広々とした感情をさらけだし、私に接するようになり、私はサーシャというロシア名で呼ばれるようになった。
ヴィクトールは細めの小さな顔と引き締まったシュワルツネッガーのような素晴らしい体をもつ40歳だ。溶接、鉄鋼、建築関係のプロで、すぐに仕事が見つかり、ボリスのヨットを離れアパートに移り住んだ。
土日には母国語を心おきなく話すためだろうか、ウクライナ人、ロシア人が集まり、酒盛りをするのが常だった。彼らの心がウクライナの平原なら、胃袋はカスピ海並みの許容量を持っていることを証明したのだ。
ビールの大飲みはどこにでもいるが、ウォッカの1.5リットル瓶を一晩に3本飲み干すのだ。そして、週末ウォッカ・パーテーの会場は、我が船のコックピットが当てられるのだった。それが毎週重なると、酔っ払いとの付き合いから逃げたい気持が湧いてきたが、満面笑みを浮かべ、"サーシャー!"とウォッカやビール、スナックの詰まった袋を下げて私の船に寄ってこられると、私も"ヴィクトール!"と返さないわけにいかないのだった。
マリーナの連中は、「佐野はロシア酒場を開業した」と冷やかした。最終のフェリーで帰る時、ゴルバチョフ流の男と男が、口と口をジカヅケするキスをされ、破壊的な筋力で抱きしめられるのだ。横目で観ていた連れ合いに言わせれば、酔っ払った中年男同士のキスはイタダケナイそうだが。
彼らが持ち歩いていた小型の分厚いアルバムを何度見たことだろう。ヴィクトールの奥さんのタチィアーナは、もう他人とは思えないほどに馴染み、2匹の犬や彼の家も庭も通い慣れた散歩道で目にする光景であるかのような親しみを覚えたものだ。
このような状況の時、私は自動的に彼らの生活の豊かさと日本的生活環境の貧しさを較べる傾向がある。深い緑に埋まるような家、広い居間にすべてが古臭いとはいえ、丈夫そうな家具、日本にはない豊かな空間と時間がそこにはあるように見えるのだ。しかし彼らは、新型の車、電気製品、電子器具を求めアメリカへやってくるのだ。
ウォッカ・パーテーから息を抜きたい気持がなかったわけではないが、その週末はヨットを出し、近くの島で一泊し、日曜日の夕刻マリーナへ帰ってきた。私達がヨットを舫うやいなや、ドックマスターが飛んできて、ヴィクトールが昨夜死んだことを伝えた。酔って桟橋から飛び込み、海底に放置されているハリケーンの残骸コンクリートに頭をぶつけたものらしかった。
ボリスとウクライナのタチィアーナのもとへ送る遺品をダンボールに詰めていたら、例の小型アルバムに一枚の写真が見開きに挟んであるのを見つけた。そこに、すでにでき上がった赤ら顔の私とまだ毅然としているヴィクトールが肩を組んで映っていた。
第44回:紳士のスポーツ