第92回:ヴィエキス島 その2
更新日2003/05/22
ヴィエキス島は東西に長いほうが34キロ、短い南北が6.5キロで、島全体の3分の2が米軍基地に占拠されている。しかも海軍の試射場として使われているのだ。私たちの住むイスレタでも時折爆発音が聞こえるし、夜には閃光が走り、黒い島影が浮き立つのが見える。
1941年に島の東と西の両サイドが接収され、住民は島の中央部の3分の1だけに居住が許された。キューバ危機の時、米軍のグラナダ侵攻の時には射爆が盛んだったそうだが、今度のイラク侵攻の前もにぎやかにドンピッカをやっていた。
米軍と初めはヴィエキス島の住民、今はプエルトリコ人全体に緊張が高まったのは、1999年の4月の誤爆事件が発端になっている。海軍のFA-18戦闘機が射爆訓練の際、ターゲットを1.5キロもミスして500ポンド弾を観測搭に落とし、そこに詰めていたプエルトリコ民間人(基地内で働いていた)David
Sanesを殺してしまった。
この事件以前にも、基地返還運動は主にプエルトリコ独立党を中心に行っていたが、プエルトリコ本土に数多くある基地で職を得ている人が10万人近くいるうえ、プエルトリコの家族には、軍人、もしくは一時期軍に籍を置いた経歴を持つ者が必ず一人はいる、という現実が基地返還運動の矛先を鈍いものにしていた。
軍関係の年金を貰っている人の割合は、アメリカ本土の3倍以上で、他のどこの州よりも高い。それは個人の平均収入が、アメリカで一番貧しい州である、ミシッシッピー州のさらに半分のプエルトリコでは絶大な経済的基盤となっている。ついでに言えば、プエルトリコ就業人口の3分の1が役人という、旧共産圏の国でも見られなかった官僚の多さなのだ。
David Sanesの死は、基地返還運動に文字どおり火をつけた。2000年のデモには15万人が参加した。イスレタへのフェリー桟橋のすぐ近くにある大きなヴィエキス桟橋には、ヴィエキス島に渡るデモ参加者と警察官で溢れ、渡し場にある2軒のカフェテリアは前代未聞の盛況に、冷えた飲み物は1時間で底を突いた。
プエルトリコ全体がこれほど沸いたのは、ミスユニバースとボクシングのチャンピヨンがプエルトリコに誕生して以来のことだ。
アメリカも暫定的に基地の縮小を約束せざるを得なくなった。そしてついに、今年の4月30日をもって、米軍が撤退したのだ。
プエルトリコの人は一時的な情熱だけではなく、この基地返還に実に粘り強い運動を繰り返し、ついに撤退を勝ち取ったのだ。その間の逮捕者数は何千(延べ数で)に及んだ。
基地に不法侵入はするが無抵抗、非暴力のデモを繰り返し、逮捕者が多すぎて、警察の手錠が足りなくなり、荷物を縛るプラスチックのタイを使用しなければならかったほどだ。もっともプエルトリコの警察も心情的に基地返還を望んでいたに違いないのだが…。
私は、お祭り騒ぎにも似た彼らの基地返還運動を冷ややかで皮肉な目で見ていた自分を恥じた。同時に、軍が撤退し、ヴィエキスでの演習がなくなることを、そして心おきなくグリーン・キイの砂浜を散歩できることを、プエルトリコ人とともに祝いたい気持になった。
軍の施設と不発弾を取りのぞいたあと、自然保護地区に指定し、開発から守る方針だ。
グリーン・キイの静けさは破られずにすみそうだ。
第93回:ヴィエキス島 その3