第77回:処女航海 その2
更新日2003/01/30
雷の閃光と音の時間差を計っていたところ、8秒が5秒になり、3秒になり、ついに海に落ちた雷が緑色の光の束になって海中を走るのが見えるようになった。その時すでにセールは降ろし、針路を安定させるためエンジンをかけていたが、ヨットが大音響とともに真っ白く目に焼きついたのだ。
落雷だった。このヨットが鋼鉄製だったことが幸いした。雷のとてつもない電力は船の外殻を廻り海へ抜けたのだろう、コンパスや航海灯、アンテナは焦げたが、信頼のおけないエンジンは何事もなかったかのように回りつづけた。
嫌なうねりは残ったが、暴風状態だったのは1時間くらいのものだろう。緊張の極致に達していた連れ合いが、吐きそうだからバケツかビニールの袋を持ってきてくれというのを受けてキャビンの中に入ったところ、異常な臭いが鼻を突いた。
船内は散々たるありさまだった。
シケのために締め切ったキャビンは地中海の午後の暑さを密閉凝縮し、加えて回しっぱなしのエンジンの熱がこもり、サウナに近い状況だった。臭気のミナモトはカツオだった。
流しに入れておいたカツオの味噌煮は鍋ごと飛び出し、台所だけでなくサロンの絨毯にまで飛び散っていた。粉々に砕けたグラスの破片が撒き散らされ、その上、フックをかけ忘れた引き出しからこぼれ出てきた、皿、ナイフ、フォークがところかまわず飛び交い、連れ合いがテーブルに飾っていたフルーツバスケットはカゲもカタチもなく、リンゴ、オレンジは船の揺れに合わせ、床を転げ廻っているではないか。
すでに風は収まってはいたが、嫌なウネリに落ち着きなく揺れるキャビン内で片付け始めようとした。しかし1分と経たぬうちに臓腑をグイとつかまれたような吐き気に襲われ、あわててコックピットに出ようとした。が、そこまでだった。
連れ合いのために用意したビニールの袋の中に一挙に吐いたのだ。このことで、連れ合いに後々まで、馬鹿にされ、笑われ、いたく自尊心を傷つけられ、加えて懐も痛んだ。というのは、無理をして手に入れた船は床面積も広く、絨毯の買い替えに大枚をはたかなければならなかったからだ。
鍋か蓋が当ってできたのだろう、自慢の重厚なニス塗りマホガニーの壁に残った凹みは修理のしようもなく、見るたびに準備の悪いこの航海のことを思い出させた。
連れ合いの方は、結局、吐かずに舵を取り続け、Kは豪快に眠り続けた。いかなる環境でも寝ることができるというのが、ヨット乗りの一番の必須条件だとKは身をもって教えてくれたのだろう。
夕暮れにイビサの港に近づき、Kを起こしたところ、「オッ、意外と早かったな…」と、言ったものである。
その後、幾度となくマジョルカ島とイビサ島の間を行き来したが、この苦い教訓を生かして、出港前には船酔いの薬を飲み、船内に飛んだり、転がったりするものがないよう確認し、カツオの味噌煮がぶちまかれたり、グラスや皿が飛び出したりする事態に陥ることなくクルージングしている。そして、あのカミナリにも出会っていない。
第78回:新マリーナ経営法 その1